行徳の名産品である神輿。
このごろは日本の祭り文化の象徴として外国の方々にも知られるようになりました。
なかでも親日的な人が多いといわれる台湾では、日本文化の紹介イベントで神輿渡御が行われたり、日本統治時代の神輿が現存するケースもあるなど、広く認識されているものと思われます。
以前中台製作所の行徳神輿が展示されている台湾のお寺訪問記を投稿しましたが、海を渡る行徳神輿はそれだけではありません。
2017年には期間限定ながらも台湾の別の場所でも展示されていたのです。
ということで、前回の台南カオス寺(龍崎文衡殿)訪問から4ヶ月、またまた行徳神輿を見るために台湾へ行ってしましました。
地元のものを異国で見るのは貴重で胸はずむ体験。
行徳神輿が展示されていた大渓という小さな町もノスタルジックで素敵なところでしたので、あわせて紹介しますね。
2017年6月のある日。
深夜に台湾入りした私は、ひとときの仮眠を経たのち朝の台北駅から電車に乗り込みます。
余談ながら駅弁の包み紙がゆる可愛くてひと目ぼれ。
30分ほどで在来線(台鐵)の桃園駅に到着。
駅近くのバスターミナルから路線バス5096番に乗り込みました。
バスに乗ること約45分。
今回の目的地、大渓の町に到着しました。
第二次世界大戦前の日本統治時代、都市計画により整備された商店街。
当時流行していたバロック様式の建物が軒を連ねています。
屋号や豪華な彫刻が施された看板と、レンガや石造りのアーチがとてもゴージャス。
老街とよばれる素敵な街並みです。
さすが亜熱帯、気温は既に30℃超え。
6月にしては肌寒かった日本との気温差に身体がついていけません。
猫たちも暑くてたまらないようで、アーケードの下でぐだっと倒れこんでいました。
目指すところは日本統治時代に建てられた当時の姿を保つ武徳殿。
もともとは警察官が剣道や柔道の練習に励んだ武道場でした。
現在は他の歴史的建築物とともに、町の歴史や産業を伝えるギャラリーとして使用されています。
大渓は清代から日本統治時代にかけ、川の水運を活かした物資の集散地として繁栄した町。
また豪商の邸宅建設のため大陸から集められた木工職人たちが定住したことから、神棚製造などの木工産業が盛んとなりました。
現在は伝統工芸である木工産業による町おこしの取り組みが行われています。
神仏にまつわる木工産業と水運で栄えた点が行徳と共通していますね。
このとき開催されていたのは、地場産業の木工にちなみ、台湾と日本の伝統木工芸を紹介した展覧会。
日本からは飛騨古川の千鳥格子とともに行徳神輿の技術が紹介され、神輿の製造工程などを記録した映像も流されていました。
落ち着いた木の空間に燦然と輝く行徳神輿。
台湾製の展示品に囲まれても木工という共通項のためか、違和感なく堂々としたものです。
行徳神輿についての説明書き。
中国語なのでさっぱりわかりませんが、漢字の字面から推測すると、行徳神輿の製作が江戸時代から始まったこと、当時の行徳には多くの塩田があり塩や神輿が江戸や他の地方へ船で運ばれたこと、行徳が神輿の主要産地になったこと、中台製作所が150年の歴史を持つことや神輿の製造工程などについて書かれているようです。
こちらは神轎(すんきゃお)と呼ばれる台湾の神輿。
緻密な彫刻が施された豪華な二重塔です。
日本の神輿とは異なり低い位置に棒が設けられています。
肩で担ぐというのではなく、腰のあたりで持つようなイメージでしょうか。
ところでこの大渓という町には日本統治時代の遺稿が多数残され、まるで昭和初期の日本にタイムスリップしたかのような感覚に陥ることしばし。
写真は武徳殿からほど近い川沿いの公園にある神社の遺稿。
参道沿いに灯篭が並ぶ光景を見ると、ここが台湾だとは思えないぐらい。
狛犬も一対そのまま残されています。
同じ公園内を歩いていると、なにやら土俵らしきものを造る工事が行われているもよう。
ここは日本統治時代における土俵の跡地。
戦後撤去され噴水池や野外劇場へ転用されていたのを、ふたたび土俵へ復元させる試みがなされているところでした。
なおこの土俵は2017年9月に完成し、お披露目の際にはチーバくんやうなりくんも土俵に上がって相撲を取ったそうですよ。
残念ながら2018年の現在行徳神輿の展示は終了しています。
しかしながら100年前から保管され続けていてもおかしくないほど、行徳神輿が違和感なく溶け込みそうな町でした。
鉄道駅がなく交通の便はよくないですが、桃園国際空港からはそれほど遠くはないので、台湾訪れる機会があれば足を伸ばしてみてください。
大渓老街
桃園市大渓区和平路・中山路・中央路
交通:
桃園火車站(桃園駅)バスターミナルより桃園客運バス5096番に乗車→「新街尾」バス停または大渓バスターミナルで下車。